川村 英司 2004-2005年度 第4回 レクチュア・コンサート

 2005年6月28日 18時30分

於:Studio Virtuosi

Franz  Schubert 作曲 "Schwanengesang"D 957 ( 1 )
「白鳥の歌」 ( 1 ) レルシュタープの詩による歌曲

バリトン:川 村 英 司

ピアノ:東 由 輝 子

 

 前回は喉の不調のために半分で止めてしまい、その分は7月30日の18時より再度致す事にしましたが、ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。原因ははっきりしませんが、きっかけはシックハウスと言いますか、札幌で3日レッスンをして何となく気管支がざらざらする事がありましたが、窓を開ける事、木炭を配置することでここ何年かは気にならなくなっていましたが、2月末の時に風邪気味と重なったのか、気管支の変化を感じました所、3月に入り咳と痰に悩まさせられる事となりました。お医者さんにも通いましたが、結構しぶとく長引いています。4月4日からヨーロッパに出掛けましたが、少しは良くなっていましたのに、下旬にまたひどい咳をするようになり、Moortrinkkurといろいろな薬草のエキスで作ったLumisonnと言う液を飲みましたら2回で不思議なくらい気管支が滑らかになりました。しばし続けていたのですが、帰国して定期的に飲まなくなったら、またぶり返ってきました。その後は一進一退でお医者さんからの薬は飲んでいるのですが、はっきりしない状態です。それ以来良くなったり、悪くなったりの繰り返しで、いい加減に良くなってくれ!と言うこの頃です。
 考えてみれば1965年10月24日(日)にジェラルド・ムーアさんの伴奏で、日生劇場音楽シリーズでリサイタルをしましたが、その半年前から東京で外に出るとひどく痰が出て大変でした。リサイタルの2週間前には1週間湯河原に宿を取りゆっくり休んだものでした。家にいると全然でない痰が、道路に出るとあっという間に痰が出るのでしたが、翌年の夏1966年夏にははじめて東京で光化学スモッグで倒れる学童が新聞種になりました。僕の喉(気管)は昨年当たりからまた痰が出だしていますので、東京の空気の汚れからなのかもしれません。空気が悪いために直りきらないのが最大の原因だと思います。エコノミックアニマルの日本人が背負わなければならない宿命なのでしょうか?政治献金をしてくれるのは資本家、企業だけですからね。しかも日本人の大多数は資本家でも、企業家でもないのですが、選挙になれば結果は全く反対で自民党が勝つのですから、全く不思議に思います。

   今回はシューベルトの歌曲集「白鳥の歌」より前半の7曲を致します。この歌曲集は「美しい水車屋の娘」「冬の旅」と違い、本来連歌集(チクルス)としての素材があったものではなく、シューベルトが最晩年に作曲した歌曲を、シューベルトの没後に出版社のトービアス・ハスリンガーが「白鳥は死の直前に美しく鳴く」という言い伝えに従って名付けられたと言われている歌曲集です。第1曲 ( D 957 第1曲から第13曲まで) の自筆譜に1828年8月とか書かれてあり、最後の第14曲 ( D 965A) には1828年10月と記されていますので、シューベルトにとって本当に最後の歌曲集になってしまったのです。
 詩としても全く関連性がありませんが、シューベルトは全部でレルシュタープ(Ludwig Rellstab 1799ベルリーンに生まれ、1860ベルリーンで没す)の9つの詩を作曲していますが、その中から7曲が「白鳥の歌」に選ばれました。他の3曲はD 937のLebensmutとホルンの助奏付きの Auf dem Strom D 943とHerbst D 945です。
 またハイネの詩集「帰郷」から6曲を選んで作曲しています。1827年にハンブルグで初版が出版されていますので、かなり早くに誰かがこの詩集をシューベルトに見せたのでしょう。同じ初版の詩集をシューマンは1830年代末に友人から贈られ、その詩集で「詩人の恋」を1840年に作曲しました。ハイネはその後詩を改作して、現在の詩集があるために、シューマンは意識的に詩を変えたといわれるようになったと思います。ハイネの「歌の本(Buch der Lieder)」の初版を目にして初めて分かった事ですが。Düsseldorfのハイネ研究所にシューマンが友人から贈られたサイン入りの原本があり、よく見てきたのではっきり言えることですが。記載のある表紙のコピーは貰ってあるのですが、今何処にしまったか分かりませんので。  シューベルトがもっと早くに「歌の本」の詩集を手に入れることが出来たならば、もっと違った名曲が何曲も残った可能性があったと想像するのです。この件はSchwanengesang II で話します。

 この歌曲集の順番、配列の素晴らしさがプログラムビルドゥングの理想として大変重要視されています。緩急、動と静の配列が素晴らしいのです。出版社が如何に音楽を分かっていたかということですし、以後如何に将来有望な作曲家を抱え、育てるかということも出版社の将来を左右する一つの要素になってきたのです。

 現在手に入らない詩の数々を図書館で色々とコピーをしていますが、Rellstabについてはまだ手に入っておりませんので、一番参考にしているのはMaximilian und Lilly Schochow著の"Franz Schubert Die Texte seiner einstimmig komponierten Lieder und ihre Dichter" Olms社(1974年)です。この本にも勘違いがあるようで、著者に資料を添えて伺ったのですが、ご主人の方は既に亡くなっておりました。しばらく絶版になっておりましたが、第2刷が出たそうですので、購入する事は出来ると思います。
 この本には詩人の詩とシューベルトが変えた部分も100%ではありませんが、記されています。詳しくはそれぞれの曲で話します。

 

 第1曲 Liebesbotschaft
 さわやかな小川のせせらぎに託して恋人に愛の便りを運び、伝える歌です。歌と伴奏の一体感を聞き分けて頂きたいと思います。フレーズの最後の子音の歌い方でこのように変ります。いくつか歌ってみますのでお聴きください。それによって伴奏の受け継ぎが如何に楽になり、最後までよどむことなく音楽が流れるのです。
  (最初の頁を歌い較べる。)
 言葉の違いとして第3節のはじめの単語WennをシューベルトはWannと自筆譜に書いています。自筆譜に従って出版された楽譜は新全集だけですが、シューベルトは現代流だとwennとあるべきところで、wannと書いていることの方が多いと思いますので、この場合にはどちらでも良いと思いますが、私はシューベルトに従います。

 第2曲 Kriegers Ahnung
 第1曲とは全く趣の違う曲で、明日とも知れぬ戦場での夜、故郷に残してきた恋人を思い寝付かれぬ夜の心を歌っています。今年の6月22日が世界二次大戦の沖縄戦の軍による戦いの終結の60年目の日だそうです。しかしその後もゲリラ戦その他で多くに民間人が亡くなっています。教科書では「集団自決」と美化されているようですが、沖縄では「集団死」と言っているという話を聞きました。家内の幸子は昭和20年4月18日の東京大空襲の翌日阿佐ヶ谷から神田の気象庁での気象通信のために神田までを空襲後で死体が転がっている所を徒歩で往復したそうです。僕は北海道でしたので室蘭製鉄所や製鋼所が艦砲射撃をされている音を、はるか離れた援農先の平取村で聞いただけでしたが、その悲惨さは身にしみています。平和である事、戦争に荷担しない事の大切さは痛感しています。
戦場で故郷や恋人を思う、そんな色々な極限状態の兵士の心を想像し、感じて歌いたいと思います。勿論200年も前の戦場です。
 前奏の複付点四分音符と十六分音符は出来るだけ鋭く、続く八分音符は次の八分休符が充分音が消えるように弾く事で、明日を予感して慄いている兵士の心の戦慄が表現しやすいと思います。歌の最初の "in tiefer Ruh liegt um mich her " をノー天気に歌う人はいないでしょうが、初心者が歌うイタリア歌曲集では年中お目にかかる現実です。外国語を良く理解しないで歌える層が日本には多すぎると思います。日本語でも、「ねえやはさとへ・・・」と歌って、「姉が・・・」と思ってる学生がいると爆笑した事もあります。こんな話に事欠かない時代です。ひどい時代になったものです。日本語の語学力もひどい低下です。むちゃくちゃに大学を認可した文部省が問題なのです。日本に私立大学の半分は破産しても仕方ないのではないでしょうか?萩国際大学の「ゴルフ文化学科」はお笑いも良いとこですが、文部官僚と、大学設置委員会の委員の知能指数が生んだ賜物です。平和ボケも良い所です。いんちき大学をせっせと認可するのですから、盲目と言うか、無能と言うべきか、世も末です。次官や局長が通達を出しても、その都度ざるも用意するのですから、狡猾と言うのでしょうか。
 音楽に戻ります。戦争を少しでもふれたり経験した人が想像するこの曲を歌う心理と平和ボケの人が歌う捕らえ方に全然違いが無いと言えるでしょうか?勿論全てを的確に想像して歌わなければなりません。それが芸術ですので。広島や長崎の原爆の被害を記念館などを見て想像するのと、話だけを聞いて想像するのでは残念ながら違うと思うのは僕だけなのでしょうか?昨今の小泉首相の答弁などを聞いていると戦争ごっこ世代と思わざるを得ないのです。戦争の悲惨さは全然分かっていないでブッシュのポチに成り下がったのです。日本が無差別爆撃に合った事など全然知らないのです。
 この歌を歌う時の僕の気持ちは、戦場には赴きませんでしたが、出来るだけその切実な気持ちを想像して歌いたいと思うのです。
シューベルトはこの曲で第2節の最後の言葉を "süß geträumt "に変えました。原詩は " süß geruht" ですが" süß geträumt " の方が僕には表現しやすい気がします。

 第3曲 Frühlingssehnsucht
 この春を憧れる気持ちを今の東京で感じれるのでしょうか?北海道の片田舎で育った僕はとても幸せだったと思います。春が過ぎて夏になると「光化学スモッグの到来」便利の追及が自然破壊をし、小川の水も飲めません。でも100年200年前の地球を考えて歌うしかないのです。日本も田舎に行けば自然はまだまだあります。出来るだけ自然に親しむ事が我々には大切です。お月さんを見たらクレーターを想像するのではなく、餅つきをしているウサギさんを想像するのです。アポロ計画で人間が月に一歩をしるした時に余計な事をしてくれる、神への冒涜だと怒った人々がヨーロッパには結構いました。
 この曲では綺麗に感情を込めてしゃべる事が一番の難しさです。瞬間ふーッと考えると次に言葉が出てこなくなります。
一番の問題点は何度も出てくるフェルマータです。自筆楽譜の第41小節
(参考資料1‐1)では大きなフェルマータですが、旧全集では(参考資料1‐2)小さなフェルマータで、ペーター版(参考資料1‐3)でも小さなフェルマータですが、場所が違っています。自筆楽譜では4回繰り返しになっていますので、終りから18小節目のフェルマータ(参考資料2‐1)は同様に大きなフェルマータですが、旧全集(参考資料2‐2)では小さなフェルマータで、ペーター版(参考資料2‐3)でも小さなフェルマータですが、付いている場所が違っています。
 新全集は自筆楽譜と同様に大きなフェルマータが印刷されています。モーツアルト同様にシューベルトは大きなフェルマータを結構多く使っていますので、気をつけなければなりませんが、Dover版では旧全集の写真版コピーであるにもかかわらず、大きなフェルマータの点だけを消して太いスラーで印刷している場合がありますので、気をつけなければなりません。 そのつき方でどのように違うか聞き比べてみてください。それぞれを歌ってみます。

 第4曲 Ständchen
 シューベルトの歌曲中最も有名な歌の一つに数えられるのがこのセレナーデでしょう。日本語だと「秘めやかに 闇をぬう わが調べ ・・・」と言う歌詞で親しまれています。女性に熱い思いを語りかける男性の歌です。
 Ständchenにはもう1曲あり、それは「聴け、聴けひばりを・・・」と言う歌詞で「美しい乙女よ!起きなさい!」と言うのですが、不思議な事に女性で歌う人もいます。昔エリザベート・シューマンのレコードを聴きましたが、何故レコーディングしたのでしょうか?一つ考えれる事は、とても軽く作曲していますので、シューベルトが軽い声を考えて作曲したのではないかと言う考えです。例えば An Silvia ですが、シルヴィアと言う女性を称えて歌っていますので、男性の歌ですが、シューベルトは「ズボン役」を考えたのではないかとも考えるのです。オペラでも多数のズボン役があるのと同じなのかもしれません。
 この曲では自筆楽譜
(参考資料3‐1)28小節のピアノ右手の三拍目のfis'-a' をペーター版(参考資料3‐2)だけ四分休止符に扱っていますが、これもFriedlaenderの勘違いです。シューベルトの四分休止符は参考資料3のように書かれています。旧全集(参考資料3‐3)と新全集は勿論の事自筆楽譜とおなじです。
 また28b小節の右手は自筆楽譜(
参考資料4‐1)では付点二分音符なのに、ペーター版(参考資料4‐2)では二分音符で四分休止符になっています。勿論旧全集(参考資料4‐3)も新全集も自筆楽譜とおなじです。この休止符が有るか無いかで、表現の気持ちは大いに違ってきます。Herzを付点二分音符で歌って、Lass auch die Brust bewegen, (原詩では Lass auch das Herz bewegen, )と感情を込める時に伴奏右手に休止符があってはかなりの邪魔をしてくれます。Friedelaenderが何故付点に気がつか無かったのか、Friedlaender以前のペーター版は付点二部音符になっていたのですから、表現上からも全く不可解です。しかも編集報告には、その件では全く触れていません。この部分を聴き分けてください。
 Schochowの本ではこの詩の変更には触れておらずに、「変更なし」とあります。
この曲は1832年3月22日にヴィーン楽友協会の夕べのコンサートで初演されました。

 第5曲 Aufenthalt
 かつては非常に得意であったこの曲もよる年波には逆らえず、不得意となってしまいました。低い音の表現と高い音の表現が段々難しくなってきました。80歳のモラーヌさんを聴いた時に、今からもう10年以上も前ですが、すごいと感じ、年齢が声の老化をこんなにさせない人がいるのかと驚いたのですが、凡人には仕方の無い事です。
  歌とピアノ左手のデュエットとも言えるでしょう。その部分を良くお聴きください。二節しかない詩をこのように大きな曲にシューベルトは仕上げました。
この曲は1829年1月30日にミヒャエル・フォーグルによってプライベート・コンサートで初演されました。

 第6曲 In der Ferne
 この曲も恋に悩む男の歌です。その悩み方には色々有りますが、殆どの歌曲は恋に悩み、苦しみ、または恋する喜びを歌っています。ドイツリートは哲学だ!と七面倒くさく歌うと格調が高い歌と喜んだ批評家が日本には多かったと思うのですが、僕は学生に、「もし哲学があるのなら恋愛哲学だ!」と言い、僕自身はその詩に含まれている感情を出来るだけ忠実に表現したいと考えています。その点ではフィッシャー=ディースカウさんやヘルマン・プライさんでも同じだと思っています。時には僕が一寸照れたり、恥ずかしいと思って押さえる感情を、いともケロッと表現しているのを聴くと、やられたーと思うのです。僕は彼らは本当に素直に人間の感情を表現していると思います。僕のオペラ科の先生だったヴィット教授が常々「オペラでもリートでも音楽は心で聴き、心で表現するのだ!」、「頭はそれを適度にコントロールしてくれるのだから、色々な勉強をしておくことが大切だ!」と言っておられました。所謂教養は自然に自分流の表現のコントロール役だと思います。僕は恥ずかしがることなく心から詩と音楽を表現したいと考えるようになっています。
この曲は初めに大変フェルマータが多いのですが、僕は出来るだけテンポを正確にとって、フェルマータはそのままのテンポで1拍だけ余分に数える事にしています。適当に伸ばす人はいないと思いますが、もしそうすると全くしまりの無い音楽になってしまいます。
 そもそもフェルマータは音楽の流れの中で1拍か2拍かを加えるだけが一番良いのであって、息の続く限り伸ばすものでは有りません。勿論適当に伸ばすものでも有りません。
 Lüfte, ihr säuselnden, Wellen sanft kräuselnden, のピアノ右手の16分音符と左手の3連音符、またSonnenstrahl, eilender, からの右手の3連音符と左手の2連音符に切り換える表現の巧みさにはただただ驚くばかりです。

 第7曲 Abschied
 馬が駆けているような軽い足取りの伴奏に乗っかって歌います。言葉が多い詩なので綺麗にしゃべるのは大変です。特に年をとると唇や舌の動きが思うようにならないのは外国語に限らず、日本語でも同じです。この曲はチクルスとして歌う以外には歌っていませんでしたので、口の回りがどうもスムースではありません。若い頃に何度も歌った曲は口の回りが滑らかですし、言葉を直ぐ思い出すのですが、あまり歌っていない曲は毎回が新しく見る曲と同じです。不思議なものです。
 この歌曲集「白鳥の歌」の最後の歌「鳩の使い」と同様にピアノ伴奏者がとても神経を使う曲です。拍の裏の音が多いので気を付けなければ足の悪い馬になってしまいます。歌そのものはその伴奏に乗ってしゃべれば良いのですから、如何に言葉を綺麗に感情をこめてしゃべるかと言う事です。
 この曲は1833年3月14日にヴィーン楽友協会の夕べのコンサートで初演されました。
以上で「白鳥の歌」第1回目は終わりますが、質問が有れば僕にわかることはお答えしますので、どうぞ!

時間が有ればと思って一夜漬けですが、レルシュタープの "Herbst " を歌って終りと致します。

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